ただ一方的に憧れているだけだもの。 私のことを知ってもらおうとか、そんな気持ちは一切ないから。 あの時はただ、彼を見て純粋に胸がキュンとした。 整った顔がまるで王子様みたいで、その笑顔に胸が高鳴った。 あれから八年経つ。……今の彼はもっと大人になっているんだろうな。 今もきっと、イケメンぶりは健在なのだろう。「袴田さんもこのことは知らないの?」 「……うちの部長ですか?」 唐突に出された名前に、首を傾けながら不思議そうに宮田さんを見る。「はい。言ってませんけど?」 「それを聞いたら、袴田さんは妬いちゃうよね」 「……は?」 今度は思わず眉をしかめた。この人はなにを言ってるんだろう。「部長が……妬く? 私にですか?」 「うん。あれ? そういう関係じゃないの?」 「違いますよ! 部長は若く見えますけど四十歳です。私といくつ歳が離れてると思ってるんですか。そんな関係にはなりえません」 私がそう言うと、宮田さんはワハハと声に出して急に笑い出す。 勘違いが解けるといいのだけれど。「バカだね、朝日奈さんは。年齢なんて関係ないじゃん。それくらい歳の離れたカップルや夫婦、いくらでもいるよ」 そう言われてみると、そうだ。 その人のことを好きかどうかであって、年齢は関係ない。 私と部長は十四歳差だけれど、世の中にはそれくらいの歳の差カップルもたくさん存在する。 自分の言ったことが、今更恥ずかしくなってきた。「それにしても袴田さんは四十歳なんだ。ほんと、実年齢よりずいぶん若く見えるね。髪型や体つきもオジサンくさくないし、シャツとかネクタイとか、選んでるもののセンスがいいからかな」 部長とは一度会っただけのはずなのに、そこまで見ていたのかと感心してしまったけれど。 そういえば以前、部長が言っていた。 人や部屋や空間……そういうところを見てしまうのがクセなのだと。 宮田さんも、きっとそうなのだろう。「部長は元々インテリアデザイナーを目指してたんですよ」 「……デザイナーね。なるほど、どうりで。まさか僕と同じ畑だったとは」 なにかをデザインして、それを形にしていく…… そう。ふたりはおおまかには同じ畑の人間なのだ。「ま、とにかく。袴田さんと付き合ってないんだったら、ライバルはその、八年前のモデルくんかな
「もし、そのモデルくんに会うことができたら告白しちゃう?」 「なにを言ってるんですか。もう会えませんよ。八年間、全く紙面で見かけませんし」 「万が一だよ。万が一、もう一度会えたら、好きですって言うつもり?」 サラっと返事を返す私とは正反対に、隣を見るとなぜか宮田さんは不機嫌そうな面持ちになっていた。 八年ぶりにまた会えたからって、告白? 本当になにを言うんだ、この人は。 向こうにとってみれば八年ぶりも何もなく、いきなり知らない女が告白してきたことになるのに。 八年前からファンでした、くらいのことは勇気を出せば言えるかもしれないけれど。 本気の告白なんて、できるわけがない。ま、するつもりもないけど。 憧れの人をまたこの目で見てみたいだけだ。 でも、こういうのももしかしたら片想いのうちに入るのかな? 憧れだから、違うのかな?……それすら私はよくわかっていない。「どうしたんですか? 顔が怖いですよ」 「だって気になるし、妬けるよ」 漆黒の瞳が、私を捕らえてじっと射貫く。 なんだか距離が近いのでは? と思ったときにはすでに、額にそっとキスをされていた。「なっ、なにしてるんですか」 「あ、本当だ」 まるで今のは、自分ではない別人がしたことみたいに、宮田さんはあっけらかんとした表情で笑っていた。 冗談では済まされない行為でしょ、これは。「なんか今ね、チュってしたくなったんだ。なんでだろうね」 なんでだろうね、って言われても、こっちが聞きたい。「……あ、そうか」 彼は自問自答しつつ、なにか自分なりにその答えを見つけたようだ。「僕は朝日奈さんが好きなのか……」 なんだ、そういうことか。 などと、納得したような顔をする宮田さんを前に、私は驚愕して言葉が出ない。 ただ宮田さんを見つめて、パチパチとまばたきを繰り返してしまう。 私は今、告白されたのだろうか。 宮田さんから? ま、まさか。 だって宮田さんにとって私は、ただの仕事相手で。 ほかの女性と変わらない、からかって遊ぶだけの、なんてことはない存在のはずなのに……「冗談……ですよね?」 だけど。宮田さんの唇が触れた額が、そこだけ熱を持って熱い。 どうしちゃったんだ、私…… というか、唐突になんてことをしてくれるんだ!「本気だけど?」
「緋雪! 今週の日曜日、空いてる?」 お昼休みに休憩スペースでコンビニの鮭おにぎりを頬張っていたら、麗子さんから声をかけられた。「今週、なにかあるんですか?」 「うん。友達と行こうとしてたライブがあるんだけど。その友達、行けなくなっちゃってね。チケットがもったいないから一緒に行こうよ!」 テンションの高い麗子さんを前に、眉尻を下げてペコリと頭を下げる。「すみません、今週はちょっと用事があるんですよ。本当は麗子さんとライブに行きたいんですけど……」 麗子さんと出かけるほうがどんなに良いか。 どんなに楽しくて、気が楽なことか。 聞けば、それは今人気のバンドのライブだった。 ストレス解消にはちょうどいいのだけど。「なんだぁ、緋雪もダメかぁ」 「ごめんなさい」 シュンと肩を落として謝ると、麗子さんがクイっと口の端を上げて意味ありげに微笑んだ。「何……緋雪、彼氏でもできたの?」 「いやいやいや、そんなわけないじゃないですか!」 手をブンブンと横に振りながら、あわてて真っ向否定すると、麗子さんはケラケラと綺麗な顔で笑う。 否定する自分が悲しいけれど。「また、誘ってください」 「うん、また今度。その代わり、男が出来たら絶対言いなさいよ?」 せっかく先輩が誘ってくれたのに、それを無下に断る後輩でごめんなさい。 それもこれも全部、気まぐれイタズラわがままっ子のせいなんです! ――― 時は、昨日の夜にさかのぼる。 私が仕事から帰ってきて、家でホッと一息ついたのもつかの間。 スマホに、宮田さんから着信があった。 どうしたのかと、自然と眉間にシワを刻みながらも静かに通話ボタンを押す。「もしもし」 『あ、もしもし。朝日奈さん?』 一週間ぶりに聞く、彼の声。 そう、あの日…… 告白だのキスだのと、幻聴とか幻影に一気に襲われたあの日から、会ってもいないし電話もしていなかった。 デザインの進捗は気になっていたし、それは仕事として確認しなくてはいけなかったけれど。 あれがまったくの幻だったとは、やっぱり思えない。 どう考えてもあれは夢や幻じゃなくて現実だった。 それをただ認めたくなくて、私は幻だったと思いたいだけなのだ。 仕事をする上で、彼を無視するのもそろそろ限界だなと思っていた矢先。 おそるおそる電
「日曜日? なぜですか?」 『なぜって……デートだから』 「意味がわからないので、お断りします」 『あ、ちょっと待って!』 私がそのまま電話を切るとでも思ったのか、電話口で慌てるような声が聞こえてきた。 ……ちょっと、面白い。 相手に見えていないのをいいことに、私はスマホを耳に当てたまま、思わず笑みを浮かべる。 いつも驚かされたりあわてさせられたりしているのは私のほうなのだから、ちょっとはあの人もあわてたりすればいい。「なんでしょう?」 『デートっていうのは言い過ぎた』 でもやっぱり、こうやって意味不明だ。『実は、朝日奈さんにお願いがあってね』 「お願い?」 この人が私にお願いなんてすることがあるの?と、少し違和感を覚える。 だって、いつも有無を言わせず決定するような、わがままな性格だと思っていたから。 人の都合を気にかけるような、そんな普通の人間らしい部分も持ち合わせていたのか…。 どうやら少しは普通の人間であったようだけれど。 それが意外すぎて、今私が喋っているのは本当に本人かと疑いたくなってしまう。『僕の知り合いのデザイナーがパーティを開くんだ。事務所の十五周年記念パーティ。僕も招待されたんだけど、朝日奈さんに一緒に行ってほしいと思って』 「わ、私がですか?!」 な、なぜに私が。 だって私、関係なくないですか? 「いや……おひとりで行かれては?」 『招待券がね、二枚届いてるんだよ。なのに一人で行くのもどうかなって感じでしょ。それにこういうときは女性同伴でどうぞって意味じゃない? 男を誘って行ったりしたらがゲイじゃないかって邪推されちゃう』 とうとうと電話口で喋ったかと思うと、最後はそう言って笑い声を漏らす。 あなたがゲイに間違われようと知ったことではありません。 逆にあたふたしてるあなたを、見てみたいくらいですけども。 「別にもう……いいじゃないですか、ゲイデビューしても」 『バカなこと言わないでよ!!』 そういう業界にはゲイも多いらしいけれど。 彼はどうやら微塵も誤解されたくないらしい。「だったらほかの人を誘ってください。そちらの事務所のスタッフの方とか」 いつもデザイン事務所に赴くと、電話番を兼ねたような事務の女性もいるし。 たとえ事務所にいなくとも、ほかのスタ
『朝日奈さんにとってもさ、ほかのデザイナーと面識ができるんだから、損はないんじゃない?』 それは……そうだ。 それに、行けばいろいろとデザインのことに関して勉強になることもあるかもしれない。 私はデザイナーではないけれど、知識として蓄積できれば今後きっと仕事の役に立つ。「そのデザイナーさんって、どなたですか?」 『香西健太郎(こうざい けんたろう)だよ。知ってる?』 「知ってます!」 名前を聞けば、テレビにも出たことがある結構な有名人だ。 彼がデザインしたティーカップを私だって買った覚えがある。 ミーハーかもしれないけれど、ちょっと実物を拝見したい気持ちが湧いた。 『お、食いついたね。じゃ、決定。朝日奈さん、間違っても今度はスーツなんかで来ないでよ?』 「えぇ?! スーツじゃ、ダメなんですか?」 もしも行くとなったら… スーツで行く気満々だったのに、先にそう言われてしまった。 なにも言わなかったら私がスーツで行くと見越して、宮田さんは釘を刺したんだろう。 スーツと言っても、もちろんビジネス用じゃなくて、ワンピーススーツで行こうと考えていた。 私が持っているのは色はグレーだけれど、ビジネス用とは比にならないくらい女性らしく見えるはずなのに。やっぱりダメなのか。『ダメダメ。だって、香西健太郎のパーティだよ? 場所だって、でっかいホテルでやるんだし』 「で、でも私、スーツ以外にパーティに着ていくような、ドレスみたいな服は持っていないです」 『心配いらないよ』 だったら行くのは無理ですね、と言おうとしたところで、宮田さんが先にそう言った。 心配いらないって、どういう意味なんだろう?『ドレスなら、僕のところにたくさんあるから』 「え?」 『僕を誰だと思ってるの?』 誰って……気まぐれイタズラわがままっ子でしょ。 いや、それもあるけど本来は……『一応、僕もデザイナーなんだけどな』 そうだ。この人は普段ふざけているけれど、デザイナー・最上梨子だった!『明日、事務所においでよ。待ってるからね』
次の日。 私は呼び出されるままに、午後から最上梨子デザイン事務所を訪れた。 パーティの件も気になるけれど、ブライダルドレスのデザインの進捗状況のほうも気になる。 ……うちの仕事、ちゃんとやってくれているのだろうか。「お疲れ様です」 「朝日奈さん、こっちこっち!」 私がペコリと頭を下げるも、挨拶すら割愛するわがままっ子様。 なぜか今日もテンションが高そうな笑顔で手招きしている。 ダメだ。早くも向こうのペースに飲み込まれそう。「こっちだってば! 早く!」 「み、宮田さん! ちょっと待ってください!」 なかなか歩を進めようとしない私に業を煮やし、宮田さんが私の左手を掴んで強引に引っ張っていく。 たまたま事務所内にほかの人はいなかったけれど、 強引に引きずられて歩く私は他人からみたらどんなに滑稽だろうか。 どうしてこんなに焦って歩くのかわからない。 だいたい、身長差があるから歩幅だって違うのだ。 そこのところを、わかっていただきたい。 というか、ちょっと待ってと言っているのに無視ですか?! ずるずる、どたどた、という擬音がピッタリの引きずられようで歩くと、すぐにいつものアトリエ部屋が見えてきた。 なんだ、いつもの部屋じゃない。 そう思っていたのに、宮田さんはアトリエ部屋ではなく右隣の部屋の前で立ち止まって、ポケットから鍵を取り出してガチャリと錠を開ける。 そこはもちろん、私は入ったことがない部屋だ。 しかもしっかりと施錠してあったということは、普段はほかのスタッフも立ち入りを禁止されているのだろう。 「どうぞ」 扉を開け、電気をつけて中へ入っていく宮田さんに続いて、私もその部屋へ足を踏み入れる。 「うわぁ、すごい!」 部屋に一歩入った瞬間、驚きと感動で感嘆の声しかあげられなかった。 だってそこにはドレスやトップスやスカートや……目を見張るような衣装の数々がたくさん揃っていて。 ――― 最上梨子の世界、そのものが詰まっていた。 普段の喋り方やわがままぶりを見ていると、この人は本当に最上梨子なのかな?と、疑ってしまいそうになる時があったけれど。 紛れもなく、本物だった。 これはすべて、彼が一から生み出したもの。 最上梨子らしいデザインに、繊細な色使い。 どれもじっと見入ってしま
「好きなの、着てみていいよ」 手垢をつけてしまったらどうしようと、触ることすら臆するのに。 私が着るなんて、おこがましすぎる。「どれも……綺麗ですね」 最上梨子が作るものは、とにかく綺麗で美しい。 デザインを司っている全体的なラインも、バランスが絶妙だし… 特に、流れるような曲線と、それを活かす色使いと装飾。 ――― まさに芸術作品。「あのあたりに置いてるのは、全部ドレスだから。って……ただ見てないで、手に取ってみればいいのに」 そっと手を引かれて、ドレスがたくさん掛けられているコーナーへ連れて行かれる。 宮田さんが適当にドレスを選んで、勝手に私の顔の前に当ててみたりして。「ちょ、ちょっと待ってください。まさか、私がパーティに着ていくドレスをこの中から選ぼうとしてますか?」 「うん、もちろん。僕のところにはドレスがたくさんあるって言ったでしょ。なにか不服かな?」 「いや、不服っていうか……」 ここにある服はすべて、すごく貴重なものばかりなんじゃないのかな。 だから私がすんなりと袖を通していいものじゃない。「私にはもったいないですよ。一点ものとかあるんじゃないんですか?」 この世に一着しかないような、貴重なドレスもきっとあるのだと思う。 だってこんなにたくさんの最上梨子作品が並んでいるのだから。 そうだとしたら、私がそんな芸術作品を汚すような真似はできない。「一点もの? たしかにあるな。試作まで作ったはいいけど、ボツになったやつとかね。なんとなく……そういうのも処分できなくて、全部ここに置いてるんだ」 ほら。やっぱりそう。 そんなものに、私ごときが袖を通すなんて……。「でもさ、全然もったいなくないよ。朝日奈さんがパーティで着てくれるなら、逆にドレスも嬉しいんじゃないかな」 だって、やっと陽の目が当たるんだよ?って、宮田さんが綺麗な顔してうれしそうに笑う。 そういうものなのかな。 作られたはいいけど、お披露目されずにずっとこの部屋にしまわれているドレスなんかは、たしかにかわいそうだ。「いや、でも……どれも小さくて、私には入らないんじゃないかと」 もうひとつ別の意味で問題がある。 私の身長は女子の平均くらいだ。だけど体重は……間違ってもモデルみたいに細くない。
「スリーサイズは?」 「…は?」 一瞬ポカンとした私をよそに、目の前の男がニヤリと微笑む。 そう、いつものニコニコ笑顔じゃなくて、確信めいた“ニヤリ”とした顔だ。 今絶対、私が嫌がることをわざと聞いているに違いない。「言いたくない?」 「自慢できるようなサイズじゃありませんので」 本来なら、自分の着るドレスを探してくれているのだから身体のサイズを尋ねられたら答えるのは当然だけれど。 ナイスバディではないし、恥ずかしくてそんなの言えるわけがない。 そんなふうに考えていたらちょっとかわいげのない言い方になってしまった。「じっとしててよ?」 すると宮田さんは真面目な顔をして、私の正面から両肩をガッシリと掴んだ。 なにをされるのだろうと身構えていると、彼の視線が私の肩から胸元へ自然と下りていく。 どこを見てるんですか!と、抗議の声をあげようとしたとき、両肩を掴んでいた彼の手が私の両腕をするりと通過して、今度はウエストを瞬時に捕らえた。「ひゃっ!…」 その行動に驚いて、思わず悲鳴めいた声をあげる。 なにをするのかと咄嗟に顔を上げると、彼は綺麗な顔で微笑んでいた。 最近、この人はやっぱりイケメンの類なのだと、あらためて気づき始めてしまった。 今の笑顔だって、すごくやさしさを帯びている。 ウエストに触れられている大きな手は、ゴツゴツと骨ばっているし、否応なしに男らしさを感じてしまって……。 そんなことを意識してるがゆえに、胸が高鳴って仕方ない。 この心臓の音が彼に聞こえないように祈ろう。 「ごめんね。勝手にサイズ測っちゃった」 私の意識が集中していたウエストに置かれた手は、その言葉と同時に自然と離れていく。 恥ずかしくて、何気なくそっと視線を逸らせて俯いた。 たぶん今、確実に顔が赤いと思う。 というか、肩や腰を触っただけでこの人はサイズがわかってしまうのだからすごい。「スタイル、いいんだね」 「……」 いつも超絶スタイルのモデルさんを見たりしているくせに。 そういうのを世の中では“お世辞”と言うのだと教えてあげたい。「ちょうどいいのがあるよ。朝日奈さんにピッタリだと思うんだけど」 そう言って宮田さんはどこからかドレスを一着持って来て、私の目の前に差し出した。「うわぁ、素敵ですねー!」
それは最上梨子のデザイン画でもあるけど……。 それよりも、宮田昴樹というひとりの男性を守りたいんだ。 騒がれて傷つく彼の姿は見たくない。「それは……どういう意味だ?」 「……」 「俺は……お前はもっと、身の丈を知ってるヤツだと思ってたんだがな」 頑なに頭を上げない私の頭上に、辛らつな言葉が突き刺さる。 きっと私の気持ちは、部長にはお見通しだ。「公私混同するなよ。相手は今をときめくデザイナーだぞ?」 「……すみません」 「最上梨子に、惚れてどうするんだ!!」 「やめてください!」 部長が大きな声で私を叱咤する。 泣きそうになるのをグッと堪えて俯いたままでいると、それを制止する宮田さんの声が聞こえてきた。「彼女を……朝日奈さんを責めないでください」 「……」 「悪いのはすべて僕ですから」 ……宮田さん。「袴田さん、僕の正体のことを誰かに喋りたいのなら、それでも構いません」 宮田さん……なにを言ってるの?「ペラペラと他所で喋って、私になんのメリットがあるっていうんです? 週刊誌の記者にリークして小金を稼ぐとでも? 冗談じゃない。私も元はあなたと同じデザイナーの端くれ。同業者を売るような汚いマネなんてしませんよ。見くびってもらっては困ります」 「いえ……決してそういう意味では……」 袴田部長の勢いに飲まれたのか、宮田さんが難しい顔をして押し黙る。「あなたと朝日奈の間で、なにが約束されて、どういう経緯でこのデザインが描かれるに至ったのか、私は詳しくは知りません。まぁ、もうそんなことは知らなくてもいいです。ですが、私がこの秘密のことを黙っている代わりに宮田さん、ひとつお願いを聞いてもらえませんか」 神妙な顔つきで提案を突きつける部長に、私は隣で息を呑んだ。「お願い、とはなんでしょう?」 「朝日奈は見ての通り不器用で、一生懸命真面目にやりすぎるところがあります。最上梨子の秘密を守りたいと強く思うあまり、最上梨子に恋をしてしまった」 「部長……」 「その呪縛を解いてやってください。朝日奈を……解放してやってください」 呪縛って……そんな言い方ひどい。 しかも部長はなにか勘違いしていると思う。 まるでそれじゃ、私が囚われてがんじ絡めになってるみたいだ。「部長! 呪縛だなんて。勝手に決め付けないでください!」
「いえ。最上梨子が描きました」 「……だからそれは、あなたでは?」 ……どうして部長がそれを知ってるのだろう。 私の強張った顔からは嫌な汗が噴出し、これ以上ないくらいに激しい動悸がした。「ぶ、部長! なにを仰っているのかわからないです」 「朝日奈、お前は黙ってろ。俺は今、宮田さんに尋ねているんだ」 ここで部長にバレたらどうなるの? せっかくこんなに素敵なデザインを描いてもらえたというのに、すべて白紙に戻るかもしれない。 宮田さんは最初に言ったから。 秘密がバレたら、仕事は反故にする、と。 実際に、このデザインがドレスになることはないの? 幻で終わる? それも嫌だけれど、そんなことよりも。 部長がこの事実をほかの誰かに漏らしてしまったら……彼が最上梨子だったと世間にバレてしまいかねない。 それは絶対に嫌だ。 だって彼がずっと守り通してきた秘密なのだから バレるなんてダメ! 絶対にダメ!!「宮田さんは最上さんのマネージャーさんですよ! な、なにを変なこと言い出してるんですか、部長!」 「……朝日奈」 「私、黙りませんよ! おかしなことを言ってるのは部長ですから! 違いますよ、絶対に違います! マ、マネージャーさんが……そんな、デザインなんて描けるわけもないですし……」 「朝日奈さん、もういいです」 そう言った宮田さんを見ると、困ったような顔で笑っていた。「袴田さんには最初からバレる気がなんとなくしていました」 「朝日奈が必死に否定したのが、逆に肯定的で決定打でしたけどね」 「はは。そうですね」 そのふたりの会話で気が遠のきそうになった。 私があわてて否定すればするほど、逆に怪しかっただなんて。「で、いつから気づいてました?」 「変だなと思ったのは、あなたがここに視察に来たときです」 部長の言葉に、やはりという表情で宮田さんが穏やかに笑う。「普通、物を造る人間は大抵自分の目で見て確認したいものです。特にデザイナーなんていう、なにもない“無”のところから発想を生み出す人間は。……私もそうでしたからわかります」 「そうですね」 「だけどあなたは最上さんの代理だと言ってやって来た。いくら彼女がメディアには出ないと言っても、それはさすがに不自然でしたから」 「なるほど」 私にはそんなこと、ひ
エレベーターで企画部のフロアに到着すると、先に宮田さんを会議室へと通して袴田部長を呼びに行く。 私がコーヒーを三つお盆に乗せて部屋に入ると、ふたりが立ってお決まりの挨拶をしているところだった。「わざわざご足労いただいて恐縮です」 「いえいえ。こちらこそ最上本人じゃなく私が代理で訪れる非礼をお許しください」 「早速ですが、デザインが出来たとかで……?」 「はい」 袴田部長もどんなデザインなのか気になっているのだろう。 ワクワクしているような笑顔を私たちに見せる。「朝日奈、お前はもう見たんだろう?」 「はい。部長も今からド肝を抜かれますよ」 「お前……客人の前で“ド肝”って……」 「あ、すみません」 いけない、いけない。 普段の口調からなにかボロが出ることもあるんだから、この際私は極力黙っていよう。「では袴田さんもご覧いだだけますか」 先ほどと同じように、宮田さんが書類ケースからデザイン画の描かれたケント紙を取り出して部長の前に差し出す。 それを一目見た部長は、一瞬で目を丸くして驚いた様子だった。「これは……すごい」 ドレスの形はマーメイド。 色はエメラルドグリーンを基調に、下にさがるほど濃くなるグラデーションになっている。 肩の部分はノースリーブで、胸のところで生地の切り返しがあってセクシーさを強調している。 そして、なんと言っても素晴らしいのはスカート部分だ。 元々、曲線美を得意とする最上梨子らしく、長い裾のスカートのデザインは、まるで波のような動きを表していた。「この部分は?」 部長が指をさしたのは、肩から羽織る白のオーガンジーの部分だった。「海のイメージだったので、最上は人魚を連想したようで。それで形もマーメイドにしたようなのですが、上半身が少し寂しい気がしてそれを付け足したそうです。必要ないなら省くように言いましょうか?」 「いえ。これはまるで“羽衣”みたいだと思ったもので。私もあったほうがいいと思います。しかしドレスの色も、いいですねぇ」 「朝日奈さんに聞けば、披露宴会場の中は深いブルーにするおつもりだと。そこで最上は明るいエメラルドグリーンのドレスが映えると思いついたみたいです」 さすがですね、とデザインをベタ褒めする部長を見ていると私もうれしくて頬が緩んだ。 自分で絶好調だと
*** 約束していた翌日。 私は朝一番で袴田部長のデスクへ行き、ブライダルドレスのデザインが出来たことを報告した。 最上梨子の代理として宮田さんがデザイン画を持ってくる件も話し、部長のスケジュールを確認する。「それにしても、突然出来るもんかなぁ」 「え?」 「いやだって、全然進んでないみたいなこと言ってただろ?」 そうやって、少し不思議そうにする部長に、私は満面の笑みでこう口にした。「最上梨子は天才なんですよ」 宮田さんに伝えた時間は十四時。 その少し前に私は一階に降りて宮田さんの到着を待った。 しばらくすると、黒のスーツに身を包んだ宮田さんが現れて私に合図を送る。「お疲れ様。昨日のアレで足腰痛くない?」 「え!!……ここでそういう話は……」 「あはは。緋雪、動揺してる」 ムッと口を尖らせると、彼は逆にニヤっと意味深な笑みを浮かべた。「その顔やめてよ。尖らせた唇にキスしたくなる」 そう言われて私は一瞬で唇を引っ込めた。「あちらのテーブルへどうぞ。言っときますけど今日は“仕事”ですからね、宮田さん!」 「はいはい」 ガツンと言ってやったつもりなのに、この人には全然効いてない。 ……ま、それは以前から変わっていないな。「これなんだけど……」 移動するとすぐに宮田さんは書類ケースから一枚のケント紙を取り出して私に見せた。 テーブルの上に並べられたそれを見て、私は一瞬で驚愕する。「な……なんですか、これは……」 ケント紙に綺麗に濃淡をつけて色づけされたデザイン画。 生地の素材や装飾の内容など、詳しいことは鉛筆で書き込まれている。 それらを見て、私は息が止まりそうになった。「あれ……ダメだった?」 おかしいな、などと口にしながら隣でおどける彼を、 この時 ――――本当に天才だと思った。「マーメイド……。こんなすごいドレスのデザイン、私は初めて見ました。最上梨子は……計り知れない天才ですね」 「……そう? 緋雪に褒められると嬉しいな」 「感動して泣きそうです。行きましょう! 部長に見せに」 テンション高くそう言うと、宮田さんがにっこりと余裕の笑みを浮かべた。
しばらく意識を手放していた私がぼんやりと目を開けると、そこには逞しい胸板があった。 私を腕枕していた手が肩を掴んで、ギュッと身体ごと抱き寄せる。「起きた?」 声のするほうを何気なく見上げると、やさしい眼差しが向けられていた。 目が合うと先ほどまでの情事を思い出して、途端に恥ずかしさがこみ上げてくる。「緋雪は恥ずかしがり屋さんなんだね」 そう言ってこめかみにキスを落とす彼は、余裕綽々だ。「あ、そうだ。頼まれてたデザイン、出来たんだけど」 「デザインって……」 「もちろんブライダルドレス。海のやつね」 「え?!」 以前に彼が自分で採点をしてボツにしたデザインじゃなくて……。 まったく新しいものを描き直してくれたのだと思うけれど。「出来たって……納得できるものが描けたってことですか?」 「うん。けっこう自信あるよ。自分の中じゃ手直しは要らないと思うくらい」 「え~、すごい!」 食いつくように目を輝かせる私を見て、彼がクスリと笑った。「最近、仕事が絶好調なんだよね。急になにか降臨してくるみたいに、ポーンとデザインが頭の中に浮かぶんだ」 「そういうのを、天才って言うんですよ」 「そうかな? 緋雪と結ばれた次の日から急にそうなったんだけど」 香西さんが、最近の彼のデザインを見てパワーアップしてると言っていたし、素晴らしい才能だと絶賛していたことを思い出す。 やっぱりこの人は、天才なんだ。「出来たデザイン、見せてください」 「ごめん、今ここにはないんだ。事務所にあるから」 「じゃあ、明日事務所に行くので……」 「僕が緋雪の会社に持って行くよ」 「え?」 明日の予定を思い出しながら、何時に事務所を訪問しようかと思考をめぐらせていると、宮田さんから意外な言葉が発せられた。 私がデザイン事務所を訪れることが、普通になっていたのに、どういう風の吹き回しだろう。「うちの会社に、来るんですか?!」 「うん。どのみち出来上がったデザインは袴田さんに見せることになるよね? だったら僕が行ったほうが早いから」 「それはそうですけど……」 「あ、緋雪は一番に見たい?」 その質問には素直にコクリと頷く。 自分が担当だということもあるから余計に、誰よりも早くそれを見たい気持ちがあるのはたしかだ。「じゃあ、袴田さんに会う前
急激に自分の顔が赤らむのがわかった。 彼の言うことはもっともだと思うのだけれど、いざとなると恥ずかしさが先に立つ。「じゃあ……プライベートではそう呼ぶようにします」 「今、呼んで」 「え?!……こっ……こうき」 舌を噛みそうなほどガチガチに緊張しながら彼の名を呼ぶと、クスリと笑われた。「緋雪は本当にかわいい」 「もう!」 「ちゃんとベッドでもそう呼んでね」 からかわないでと言おうとしたところに、逆に彼のそんな言葉を聞いて更に顔が熱くなった。「顔、赤いけど?」 「そりゃ、赤くもなりますよ」 いつの間にか至近距離に彼の顔があって…。 そのなんとも言えない色気に、一瞬で飲み込まれてしまった。「その顔……ヤバい。すごく色っぽい」 「え? ……逆だと思いますけど」 「は? 僕? なにかフェロモンが出てるのかな? 今、めちゃくちゃ欲情してるから」 耳元で囁かれると、電流が走ったように脳に響いた。 彼のくれるキスは、最初は優しくて甘い。だけどそのうち深く、激しくなって……。 舌を絡め取られるうちに、なにも考えられなくなっていく。 手を引かれ、寝室の扉を開けると、彼が私の後頭部を支えるように深いキスが再開された。「緋雪は僕を誘惑するのが本当に上手だね」 ベッドになだれ込んで、覆いかぶさる彼を見上げると、異様なほどの妖艶な光を放っている。「ど、どっちが……ですか」 誘惑されているのは、私のほう。 欲情させられているのも、私のほう。 あなたは自分の持つ色気にただ気づいていないだけ。 ――― 色気があるのは、あなたのほう。 あなたの長い指が、私の髪を梳く。 あなたの大きな掌が、私の胸を包む。 あなたの柔らかい舌が、私の目尻の涙を掬う。「ほら、呼んで? 名前」 ふたりの吐息が交じり合う中、律動をやめずに彼が言う。「……い、今?」 「さっき約束したじゃん」 パーティの夜にも同じことをしたけれど…… 今日の彼はあの時より余裕があって少し意地悪だ。 私には余裕なんて、微塵も無いのに。「早く呼んでよ。じゃないと、僕も限界が来そう」 ほら、と急かされるけれど。 私もやってくる波に煽られて、身体が自然とのけぞってくる。「こう……き。……昴樹……好き」 私の声を聞いて、一瞬止まった彼の律動が
「今日、岳になにをされた?」 感触を確かめながら、私の右手をそっと握る彼の瞳に嫉妬の色が伺える。「全部は見てなかったから。抱きしめられた?」 「いえ、それはないです!」 「だけど、頬にキスはされたよね?」 ……それは、見てたんだ。 というか、二階堂さんも見られているタイミングでわざとやったんだろうけど。「ほかの男でも腹が立つのに、相手が相手だ。緋雪が昔一目惚れした岳だよ?! 僕があれを見て、どれだけ気が気じゃなかったかわかる?」 だから……一目惚れじゃなくて、憧れなのに。「だったらなぜ、私に八年前のことを言わせたんですか?」 私にとっては、もう昔のことで。 ただの憧れだったし、今は綺麗な思い出だ。 だから、八年前のことを二階堂さんに告げてもあまり意味はなかったのに。「緋雪が今も岳のことが心に引っかかってて……要するに好きなんだったら、後悔のないように告白させてあげたかった」 「それで、私と二階堂さんがくっ付いちゃったらどうするつもりだったんです?」 「そしたら……岳から奪う」 彼が、諦める、と言わなかったことがうれしくて。 私の右手を握る彼の手の上に、自分の左手を重ねる。「私は二階堂さんじゃなくて、あなたが好きです」 「緋雪………初めて好きって言ってくれたね」 もっと早く、言うべきだった。 どこまでが冗談なのかわからない彼は、本当は異才を放つ最上梨子なのだ そう思うと、何の取り柄も無い女である私が傍にいるのはためらわれていた。 彼が仕事で関わるモデルの女性はみんな綺麗だから、私より絶対魅力的に決まっている……なんて、歪んだ感情も芽生えたりしていた。 好きだと態度で示されても、気まぐれにからかわれているだけだと思っていた。 いや……思おうとしていたんだ。 彼のデザインを見るたび、彼の作ったドレスに触れるたび、心をギュッと鷲づかみにされてその才能の蜜に吸い寄せられていた。 そんな人に好きだと言われ、態度で示されたら……。 しかもキスなんてされたら……最初から、ひとたまりもなかったのに。「僕も、好きだよ」 彼が心底うれしそうな顔をして、私の右の頬を撫でた。 そしてそこへ、ふわりと口付ける。 今日、二階堂さんがキスした場所と同じところだ。「上書き完了」 そう呟いた彼の顔が妖艶すぎ
「宮田さんにとって、私ってなんですか?」 「え?」 「どういうポジションにいます?」 泣いても喚いても、執拗に詮索しても。 あなたにとって私がなんでもない存在ならば…… 嫉妬したって、それは滑稽でしかない。「一度抱いただけの、仕事絡みの女ですか?」 「違う!!」 弱々しい私の言葉を、彼の大きな声が否定する。「僕は恋人だと思ってるし、緋雪以外の女性に興味はない」 信じないの? と彼が切なそうな表情をする。「こんなに緋雪のことが好きで、思いきり態度にも出してると思うんだけど。僕は自分で言うのもなんだけど一途だし。なのにそこを疑われるなんて……」 不貞腐れたように口を尖らせる彼に、そっと唇を寄せる。 そう言ってくれたことが嬉しくて、気がつくと衝動的に自分からふわりとキスをしていた。 唇を離すと、驚いた顔の彼と目が合う。「良かった。本当に枕営業しちゃったのかと思いました」 「……は?」 それは、パーティの席でハンナさんに言われたことだ。 なぜか今、それを思い出して口にしてしまった。 自分でもどうしてわざわざそれを持ち出したのかと思うとおかしくて、笑いがこみ上げてくる。「あのパーティの夜、宮田さんは……午前〇時を過ぎても魔法は解けないって言ってくれましたけど。朝になったら解けちゃったのかなと……なんとなく思っていたんです」 「どうして? 僕は解けない恋の魔法を緋雪にかけたつもりなんだけどな。あ、いや、ちょっと待って。それじゃやっぱり、僕は魔法使いってことになるじゃん!」 真剣な顔をしてそう抗議する彼に、噴き出して笑う。「不安だったのは、僕のほうだよ」 「……?」 「あの夜は気持ちが通じたと思ったし、心も身体も愛し合えたと思った。だけど、もしも無かったことにされたら……って考えたら、不安だった」 「……そんな」 「僕はやっぱり魔法使いで、王子は岳なのかも…って」 ――― 知らなかった。 宮田さんがこんなふうに思っていたなんて。 二階堂さんと私のことを、こんなにも気にしていたなんて。「宮田さんは王子様兼魔法使いなんですよ」 「……何その“兼”って、一人二役的な感じは」 「それとも私たちは、シンデレラとはストーリーが違うのかも。ていうか、一人二役でなにか問題あります?」 「……ないけど」 気まぐ
手を引かれ、十二階に位置する彼の居住空間へと初めて足を踏み入れる。「お、お邪魔します。お家、ずいぶん広いですね」 おずおずと上がりこんだ部屋には大きめのリビングとダイニングキッチンがあり、話を聞くとどうやら2LDKの間取りのようだ。 まるでモデルルームのように家具やカーテンの色や風合いがマッチしていてパーフェクトな空間だった。 この前麗子さんと話していて、宮田さんはどんなところに住んでいるんだろうと、気になってはいたけれど。 それがこんなに広くてスタイリッシュな空間だったとは思いもしなかった。「ここのマンションの住人には、ルームシェアしてる人もいるみたい。僕はもちろんひとりだけど」 なるほど。ルームシェアもこの広さなら出来ると思う。 なのに贅沢にこの部屋で一人暮らしだなんて……。「緋雪、気に入ったならここに越して来る?」 「え?! 私とルームシェアですか?」 「なにをバカなこと言ってんの! 僕たちが一緒に住む場合は、“同棲”になるだろ」 肩を揺らしてケラケラと笑う彼を見て、拍子抜けしたと同時に私の緊張もほぐれた。 私がはっきりと返事をしないまま、その提案が立ち消えになったことにもホッとする。「いつも事務所じゃコーヒーだけど、今日はビールがいい?」 ソファーに座る私に、彼はそう言ってキッチンからグラスと冷えた缶ビールを持ってきた。「ありがとうございます」 「パーティのとき思ったけど、緋雪はお酒飲めるよね?」 「あ、はい。それなりには」 コツンとお互いにグラスを合わせ、注がれたビールを口に含む。 ゴクゴクと美味しそうにビールを飲み込む彼の喉仏が、やけに色っぽい。 隣に居ながらそれを見てしまうと、自動的に心拍数が上がった。「今日のことだけど。僕が、モデルの子と一緒にいた件……」 ふと会話が止まったところでその話題を口にされ、私から少し笑みが引っ込んだ。「あの子はハンナの後輩なんだけど、けっこう気の強い子でね。ハンナのこともライバル心からかすごく嫌っていて。僕は今日、巻き込まれたっていうか……あの子が、」 「もういいです」 「……え?」 「もう、それ以上聞かないでおきます」 ハンナさんへの当て付けなのか、本気なのかはわからないけれど、あの女性が宮田さんに迫ったんだろうとなんとなく直感した。「言わせて